クラシック音楽の中でも、特に有名なメロディを持つ名曲として知られるハイドンの弦楽四重奏曲『皇帝』。皆さんも、テレビやスポーツの国際大会などで、荘厳で美しいあの旋律を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
この曲は「パパ・ハイドン」と親しまれる巨匠ハイドンが残した最高傑作の一つであり、ヴァイオリンを弾く人にとっては憧れのレパートリーでもあります。現在ではドイツの国歌として知られるあのメロディが、実はどのようにして生まれ、弦楽四重奏曲の中に織り込まれたのかをご存知でしょうか。
今回は、ハイドンの『皇帝』について、その成り立ちから演奏のポイント、そして歴史的な背景までをわかりやすく解説します。これから演奏する方も、じっくり聴いてみたい方も、この曲の奥深い世界を一緒にのぞいてみましょう。
ハイドン『皇帝』とはどんな曲?基本情報をチェック

まずは、この曲がどのような作品なのか、基本的な情報から整理していきましょう。ハイドンが晩年に作曲したこの作品には、彼の音楽家としての円熟した技術と、故郷への熱い想いが込められています。
【作品データ】
作曲者:フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
曲名:弦楽四重奏曲第77番 ハ長調 Op.76-3 Hob.III:77
通称:「皇帝」(Kaiser)
作曲年:1797年
構成:全4楽章
なぜ「皇帝」という愛称で呼ばれるのか?
この曲が『皇帝』と呼ばれる最大の理由は、第2楽章にあります。ハイドンは、当時のオーストリア皇帝フランツ2世を讃えるために「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」という賛歌を作曲しました。
この賛歌のメロディがあまりにも素晴らしかったため、ハイドン自身も大変気に入り、この弦楽四重奏曲の第2楽章の主題として採用したのです。そのため、曲全体が『皇帝』というニックネームで親しまれるようになりました。ベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』とは全く別の由来ですので、混同しないようにしましょう。
作曲された背景とハイドンの状況
この曲が書かれた1797年頃、ヨーロッパは激動の時代でした。ナポレオン率いるフランス軍の勢いが増し、ハイドンの故郷であるオーストリアも脅威にさらされていました。
以前ロンドンを訪れた際に、イギリス国民が国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」を歌って団結する姿に感銘を受けていたハイドンは、オーストリア国民にも心を一つにする歌が必要だと考えました。そのような愛国心と、人々を励ましたいという強い願いが、この名曲誕生のきっかけとなったのです。
「エルデーディ四重奏曲」としての位置づけ
『皇帝』は、単独で発表されたわけではありません。「作品76」としてまとめられた全6曲の弦楽四重奏曲セットのうちの3曲目にあたります。このセットは、ハイドンのパトロンであったエルデーディ伯爵に献呈されたため、『エルデーディ四重奏曲』とも呼ばれています。
この作品76のセットには、『皇帝』のほかにも『五度』や『日の出』といった有名な曲が含まれています。ハイドンが長年の作曲活動で培った弦楽四重奏のテクニックが凝縮されており、まさに集大成とも言える作品群です。
弦楽四重奏曲第77番(Op.76-3)の各楽章の聴きどころ

ここからは、全4楽章それぞれの特徴と聴きどころをご紹介します。特に第2楽章は変奏曲形式となっており、この曲の最大のハイライトです。
第1楽章:エネルギッシュな幕開け
第1楽章は、明るく堂々としたハ長調で始まります。冒頭の「ジャン・ジャ・ジャ・ジャ・ジャン」という力強い和音は、これから始まる音楽の充実感を予感させます。
ハイドンらしい快活なリズムと、4つの楽器が対話するような緻密な構成が楽しめます。途中で少し影のある短調の部分も現れますが、最後は再び明るいエネルギーに満ちて締めくくられます。
第2楽章:心に響く「皇帝讃歌」の主題
いよいよ、有名な第2楽章です。「ポコ・アダージョ・カンタービレ(少しゆっくりと、歌うように)」と指示されており、まずは第1ヴァイオリン以外の楽器は休み、第1ヴァイオリンのみが例の美しいメロディを厳かに演奏します。
この主題提示の部分は、和音の伴奏を伴わず、純粋なメロディラインだけで聴かせるという大胆な手法がとられています。ハイドンがいかにこの旋律そのものの美しさを信じていたかが伝わってくる瞬間です。
第2楽章の変奏:4つの楽器が次々と主役に
主題のあと、このメロディは4回変奏されますが、ハイドンはここで非常にユニークな手法をとりました。メロディそのものを崩して派手にアレンジするのではなく、メロディの形は変えずに、演奏する楽器を次々と交代させていくという方法です。
第1変奏では第2ヴァイオリンがメロディを担当し、第1ヴァイオリンは高い音で細かく装飾します。第2変奏ではチェロが朗々と歌い上げ、第3変奏ではヴィオラが深みのある音色でメロディを奏でます。そして最後の第4変奏では再び第1ヴァイオリンに戻り、和音を伴った感動的なクライマックスを迎えます。
第3楽章:メヌエットに見る優雅さと工夫
第3楽章はメヌエット(舞曲)ですが、単なる踊りの音楽ではありません。イ短調という少し寂しげな調性が使われている部分もあり、古典的な優雅さの中にも深みを感じさせます。
トリオ(中間部)では再び長調に戻り、穏やかな表情を見せます。ハイドンのメヌエットは「性格的」と言われることが多く、貴族のダンスという枠を超えた、ドラマティックな展開が魅力です。
第4楽章:短調から長調へ駆け抜けるフィナーレ
最終楽章は「プレスト(きわめて速く)」で、嵐のような激しさを持っています。面白いことに、曲のキーは「ハ長調」のはずですが、この楽章は「ハ短調」の激しい和音で始まります。
緊張感のある短調の響きが続いたあと、曲の終盤で霧が晴れるようにハ長調へと転調します。この「闇から光へ」という劇的な構成は、後のベートーヴェンにも大きな影響を与えたと言われています。最後は華やかに、そして力強く全曲を閉じます。
ヴァイオリン奏者から見た『皇帝』の難易度と面白さ

このブログを読んでいる方の中には、実際に『皇帝』を弾いてみたいと思っている方もいるでしょう。ここでは演奏者、特にヴァイオリン奏者の視点から見たポイントを解説します。
第1ヴァイオリンの重責と華やかさ
第1ヴァイオリンにとって、この曲は非常にやりがいのある、同時にプレッシャーのかかる曲です。特に第2楽章の冒頭は、無伴奏で有名なメロディを弾き始めなければなりません。
また、第1変奏では第2ヴァイオリンがメロディを弾く上を、16分音符の速いパッセージで装飾し続けます。ここは弓のコントロールと正確な音程が求められる難所です。ソリストのような華やかさと、アンサンブルをリードする統率力の両方が必要とされます。
内声とチェロの重要な役割
ハイドンの初期の弦楽四重奏曲では、第1ヴァイオリンばかりが目立つことが多かったのですが、この『皇帝』では全ての楽器が対等に活躍します。
特に第2楽章の変奏では、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラがそれぞれ「主役」としてメロディを演奏する場面が用意されています。普段はハーモニーを支えることが多い内声(第2ヴァイオリンとヴィオラ)やチェロにとって、美しい音色で旋律を歌い上げる最高の見せ場です。
アンサンブルで合わせる時のポイント
この曲を合わせる時に最も大切なのは、「誰が主役か」を常に意識することです。特に第2楽章では、メロディを担当している楽器が気持ちよく歌えるように、他の3人は音量やバランスを繊細に調整する必要があります。
練習のヒント:
第2楽章では、自分のパートがメロディでない時こそ、相槌を打つような気持ちで演奏しましょう。伴奏パートが機械的になると、感動的な音楽になりません。
「ドイツ国歌」とハイドンの深い関係

『皇帝』を語る上で避けて通れないのが、国歌との関係です。「あれ?オーストリアの曲なのにドイツ国歌なの?」と疑問に思う方も多いでしょう。ここでその歴史をすっきり整理します。
「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」の誕生
先ほども触れた通り、元々はオーストリアの皇帝フランツ2世のために作られた賛歌でした。1797年の皇帝の誕生日に初演され、その後オーストリア帝国の国歌として長く親しまれました。
当時のオーストリア国民にとって、このメロディはハプスブルク家への忠誠と国の誇りの象徴だったのです。
オーストリア国歌からドイツ国歌への変遷
歴史の流れの中でオーストリア帝国が崩壊した後、この美しいメロディはドイツ語圏全体で愛され続けました。そして1922年、ヴァイマル共和国(当時のドイツ)がこのメロディを国歌として採用しました。
歌詞は時代によって変わりましたが、メロディはハイドンの作ったまま受け継がれました。現在、オーストリアの国歌はモーツァルトの旋律を用いた別の曲になっており、ハイドンのこの旋律は「ドイツの歌(ドイツ国歌)」として定着しています。
現代におけるこのメロディの扱い
現在、ドイツ国歌として歌われるのは、歌詞の「3番」のみです。これは歴史的な経緯によるものですが、音楽そのものの価値は変わりません。
サッカーのワールドカップやオリンピックでドイツ代表が勝利した時に流れるあの曲は、まさにハイドンが書いた『皇帝』の第2楽章そのものです。音楽が国境や時代を超えて生き続けることを示す、象徴的な例と言えるでしょう。
ハイドン『皇帝』おすすめの名盤と演奏動画の選び方

最後に、この曲を鑑賞するためのおすすめの方法をご紹介します。ハイドンの曲は録音も多く、演奏団体によって解釈が大きく異なります。
アマデウス弦楽四重奏団などの往年の名演
ハイドンの演奏でまず聴いておきたいのが、「アマデウス弦楽四重奏団」による録音です。彼らの演奏は温かみがあり、ウィーンの伝統的な響きを感じさせてくれます。
また、「ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団」などの古い録音も、テンポがゆったりとしていて、第2楽章の崇高な美しさをじっくり味わうことができます。
現代のカルテットによる新しい解釈
最近のカルテットによる演奏も素晴らしいものが沢山あります。「エマーソン弦楽四重奏団」や「ハーゲン弦楽四重奏団」などは、技術的に非常に洗練されており、キレのあるダイナミックなハイドンを聴かせてくれます。
古楽器(ピリオド楽器)を使用した「モザイク・カルテット」などの演奏は、ハイドンの時代当時の響きを再現しており、音が素朴で透明感があるのが特徴です。モダン楽器の演奏とは一味違う魅力があります。
初めて聴く人におすすめのシチュエーション
もし初めてこの曲を聴くなら、やはり第2楽章から入るのがおすすめです。目を閉じて、各楽器がバトンを渡すようにメロディをつないでいく様子を想像してみてください。
動画サイトなどで演奏風景を見るのも勉強になります。4人の奏者がアイコンタクトを取り合い、呼吸を合わせて音楽を作っていく様子は、弦楽四重奏ならではの視覚的な楽しみでもあります。
まとめ:ハイドン『皇帝』を聴いて弾いて楽しもう
ハイドンの弦楽四重奏曲『皇帝』は、単に「有名なメロディが入っている曲」というだけでなく、4つの楽器が対等に響き合う弦楽四重奏の理想的な形を示した傑作です。
第1楽章の堂々とした輝き、第2楽章の祈るような美しさ、そしてフィナーレのドラマティックな展開まで、聴く人を飽きさせません。特に第2楽章で、第1ヴァイオリンからチェロ、ヴィオラへとメロディが受け継がれていく様は、まさに「調和」の象徴です。
ヴァイオリンを弾く方は、ぜひいつかこの曲にチャレンジしてみてください。そして聴く専門の方も、ドイツ国歌としてだけでなく、ハイドンが込めた「平和への祈り」や「音楽への愛情」を感じながら、改めてこの名曲を味わってみてはいかがでしょうか。



